私的「阪神・淡路大震災体験記」


1995.01.16.Mon.晴れ.西宮

ヨメが厄年だというので門戸厄神へ厄払いに出かける。徒歩五分。結構人が多い。

1995.01.17.Tue.晴れ.西宮

わーっ!と叫び声を発したような気がして夢から覚めた。

夢ではない、地震であった。
トランポリンに乗っているようだ。布団を頭からかぶり、箪笥の上から落下する各種空箱類から逃れつつ、揺れがおさまるのを待つ。枕元の目覚ましラジオは停電のため何も表示しない。今何時か?(05:46 であった由)。これまでに経験のない激しい揺れに背筋が凍るような恐怖を憶える。
家族が寝ている和室へ行く。「大丈夫か?」幸いにも皆無事だった。どうするべきか考えてみたが、まだ暗いし夜が明けるまで寝て待とうということになった。

揺れが収まり外が騒々しくなってきた。マンション住人は皆廊下に出ているらしい。ウチのマンションは中庭を囲む内側四方に廊下がある。あとで聞いた話だが、マンション中、大方廊下へ出たのにウチだけ出てこないのはタンスの下敷きにでもなったのではないかと噂されていたそうな。

リビングがやたら寒い。南向きベランダのサッシが全開していた。ガラスは割れていない。

自室の扉が開かない。数センチは開くのだが... 内開きなので部屋の内側で何か倒れて挟まっているのだろう。鞄や着替え、財布など全部この部屋にあるのだ。

玄関から廊下に出て、窓の格子を外してみようと考えた。格子はボルトとナットで内側から止めるようになっている。試しに触ってみたらなんと手で簡単に回るではないか!地震くらいで緩むはずもなく、元々緩かったのだろう。幸いにも結露防止のため窓を僅かに開けていたためガラスを破らず室内に入ることができた。

昨夜、FD 中身整理のため、机上に出しておいた SE / 30 が床に落ちていた。本棚が歪み出入口を塞ぐように倒れている。三つ並んだスチール本棚は一応立ってはいるがすべての本を吐き出し床は本で埋まっている。

なんとか鞄と着替え、車の鍵、財布などを探し出してリビングに戻る。廊下からリビングへ入る辺りがザラザラしていてどうやらガラスの破片らしく足裏を少し切った。廊下に血痕が点々と、、

外を見るとベランダの天体望遠鏡が倒れ、エアコンの室外機が十センチほど移動している。
遠くには火災と思われる黒煙が上がっている。まもなく空が明るくなってきた。真っ赤な太陽柱が見える。珍しい現象なので写真を撮ろうとしたがフィルムの入っている FE2 が書物に埋もれて見つからない。
ダイニングに置いている木製本棚は完全に壊れていて修理不能。
台所では食器棚が倒れ、食器がほぼ全滅。
脱衣場では下着などを入れるタンス、洗濯機、乾燥機が倒れている。

停電は間もなく回復した。ん?焦げ臭いぞ。倒れた食器棚の背中の上で仰向けになったオーブントースターに電源が入って煙を上げていた。

あまりの混乱ぶりに「出勤は無理」と電話連絡を考えた。ところが電話が繋がらない。

携帯ラジオを消し、画面を下に向けて倒れていたテレビを元に戻し NHK を見る。死者数十人などと言っている。

07 時頃、出勤スタイルで使えそうな公衆電話を探しに出かける。

車を走らせて驚いた。コンクリート塀は倒れている、石垣は崩れている、いかにも古そうな家は全壊している。(この下に人がいることになぜ気づかなんだのか!)道は倒壊物のおかげで幅が半減し走りにくいこと甚だしい。しかもところどころ地割れがあり、段差もあって通過に気を使う。
関学前から甲陽園方面へ向かうがどの電話も長蛇の列。公衆電話は使えるらしい。

コープ甲陽園まで来たところで実家が心配になり覗いてみることにした。
夙川左岸を南下し夙川駅方面へ右折する際、地割れの段差で車の底を擦ってしまい、CATALYST 警告灯が点灯しっぱなしになった。恐らく警告灯の回路が切れたのだろう。この橋は落下の危険があるとのことで翌日通行止めになった。
ここいらに多い豪邸の石垣塀を成す大きな石の一部が道の真ん中まで転げている。

なんとか実家近くまで辿り着いた。瓦がずいぶん落ちている。これで雨が降ったら具合が悪い。玄関前の石畳や瓶など全部割れている。車が車庫の扉にひどくぶつかったらしく扉が凹んでいて開かない。
家の中は詳細には見なかったが玄関のガラスが全部破れ、父親の話によると一階和室のガラスも全部割れたそうだ。使えるのは LDK だけのようである。ガス、水道はストップ、電気だけきている。
父母に怪我がないようなので取り敢えず帰途に就く。

夙川駅から苦楽園を経由し、夙川学院から左折・北上、北山公園方面へ向かう。
何ヶ所か公衆電話を見つけたがいずれも長蛇の列でパス。鷲林寺から甲山方面へ右折。神呪寺前でようやく行列のない公衆電話機を見つけた。
まず職場スタッフに連絡を取り、事情を話して今日は休診、張り紙および医院内部の点検を指示する。
次にヨメの実家へ電話。義母は連絡を大変喜んでくれていた。テレビで報道される死者数がどんどん増えていくので心配でならなかったらしい。

9 時半頃帰宅してボチボチ片づけを始める。まずは危険なガラス類から。ヨメが「今までどこをぶらついてたのっ」などとブツブツ言いながら食器を片づけている。
ときどき自室を覗くがどこから手を付けていいかわからず結局またリビングに舞い戻る。無為な時間を過ごしている間にお昼になった。朝食抜きで空腹だったがのんびりご飯を炊ける状態でもない。煎餅などかじりながら作業を続ける。

断水しているので水をなんとかせねばならない。山用のポリタンを二つザックに入れて聖和幼稚園へ。6 リッター補給したところで断水。次に上ヶ原小学校へ行くがやはり断水していた。約七リッターで我慢して帰宅。
緊急理事会に出てきたヨメが「甲陵中学で給水してる」と言うのでポリタン、魔法瓶など約 10 リッター分をザックに詰めて出かける。

中学裏門から入っていくと「遺体安置室」と墨書きした部屋がある。まだ事態の深刻さが実感されず、???といった気分で通過、給水場所へ。
帰り際、遺体安置室を覗いてみたら父親くらいの年輩の方が遺体に付き添っていた... 亡くなったのは奥さんだろうか。合掌。

帰宅して自室の整理にとりかかるがはかどらない。この際にと無用のものをどんどん捨てていく。スチール本棚は激しい揺れで歪みきり、ボルトが曲がったものもあってこの後の寿命が心配である。

そろそろ夕食の時刻。水が少ないので米を研がずに炊く。今日初めてのまともな食事は旨かった。

突然電話がかかってきて驚いた。医局のボスからであった。感謝しつつ、無事であることを伝える。
部屋は結構片づいてきた。疲れたので早めに寝る。

1995.01.18.Wed.快晴.大阪

ニュースによると死者数は増えるばかり。大阪は豊中北部、茨木、高槻方面を除いて無傷らしい。
仁川渓谷入口付近で大規模な土砂崩れがあって数十名が生き埋めになったらしい。徒歩三十分、岩登りの練習をやる場所に近い。指をくわえてテレビを見るばかりで歯痒いことこの上無し。

明日から診療をせねばならないが交通機関が麻痺している。考えた末に「家族を航空機で実家へ帰し、両親を大阪へ連れていく。私は医院で寝泊まりする」ということにして荷物をまとめ始める。72 リッターのリュックには最悪の状況を考えてテント、シュラフ、コンロに非常食の類を詰める。小さいリュックには家族の帰省用の荷物最小限を詰める。米を三合炊いてボウルに入れる。

11 時過ぎ出発。まずは夙川の実家へ。
父親が絶対に動かないと言って聞かないので、食料を置いて一旦帰宅する。夙川まで往復するだけで二時間以上かかっている。普段なら 20 分なのに。(父親は結局最後まで自宅を離れなかった。いやはや昭和一桁は強い!
荷物類を確認して十四時頃再出発。甲稜中学横から仁川駅へ出る道は塀くずれのため通行不能。少し回り道。武庫川沿いの道も報徳学園あたりで迂回させられ、うろうろした挙げ句、甲武橋から西へ数百メートルの場所へ出た。国道 171 号東行きは渋滞なし。被害の酷い西方面行きは大渋滞の様相。

西宮へ引っ越す前に住んでいた現職場近くのアパート(今は弟が住んでいる)前に車を停め、荷物を西の空き部屋に運び込む。水道から水が出るのは感動的ですらあった。

医院を見に行く。設備にほとんど異常はない。
パソコンを起動して住所録を開き、職員全員に連絡を入れる。明日からの出勤に問題はなさそうである。
医局のボスに電話を入れ芦屋に住む先輩ドクターの無事を確認する。
低山徘徊派・あきゆきさんより電話。無事を伝える。
アパートへ戻ってゆっくりフロにはいる。生き返った気分。

1995.01.19.Thu.晴れ.大阪

地下鉄は新大阪から東三国まで復旧した。
久しぶりの仕事は忙しい。風邪が流行している印象。この寒い中、よどんだ空気の避難所では肺炎にかかる人もありそうだ。

15 時頃ヨメより電話あり。弟が 17 時頃車で来て、これから夙川へ行くといって出ていった由。
20 時過ぎ、弟が戻ってきた。伊丹あたりで渋滞がひどく、諦めたとのこと。
夜半近くに出ていった。もう一度、どこまで行けるか西へ向かってみるとのことであった。

1995.01.20.Fri.晴れのち曇り.大阪

弟より電話。夜中は割合楽に西宮まで行けるそうだ。
広島に住む叔母から電話あり。無事を伝え、親戚一同への連絡を依頼する。

西宮はガス、水道の復旧までに数ヶ月要する由。しかもマンションであるから全戸の配管に異常が無いことを確認してからでないとガスも水道も通せない。おまけに施工主の長谷工・神戸営業所は地震で潰れたそうな。となると半年は住めないか。阪急電車は西宮北口まで動いているので、通勤は不可能ではないが...

ここ大阪でも食料・物資等が不足している。買い出し部隊が押し寄せているのだろう。

1995.01.21.Sat.晴れ.西宮

21 時頃医薬品等を積んで西宮へ。
23 時頃西宮小学校体育館避難所へ出向くがもう遅くて寝ている人がほとんどであった。明日出直すとしよう。
少しだけ片づけてゴミを外に出し、公園の水道から水を大量に汲んできて明日の用意とする。遅くなったので休む。

4 アマ受験票が届いていた。試験日は 2 月 5 日である。勉強する余裕があるか?

1995.01.22.Sun.雨.大阪

10 時起床。まずは避難所へ。診察希望者は十名ばかり。風邪は思ったほど多くなく、重症例は既に救急車で転送されたらしい。

理事の仕事としてマンションの傷を写真に撮る。南北の壁には各階×印のような大きな傷が入り、南向き戸の玄関扉は全階大きな傷が入ってたりねじ曲がったりで使いものにならない状態である。窓ガラスもすべて割れている。東西に面した戸は比較的傷が浅い。
都市ガスに依存している暖房が動かず寒い。20 時頃帰ることにした。

1995.01.23.Mon.曇り.大阪

東灘区からの被災者一名来院。主訴は耳鳴。聴力正常。過労による神経症だろう。(このような症例がながらく続いた)

テレビで被災死亡者名が読み上げられている。そのなかに長男の幼稚園友達の名を聞くや、ヨメはふすまを締め切り向こうで泣き出した。

1995.01.24.Tue.晴れ.西宮

マンション管理人から理事会がある旨連絡あり。避難所用の薬剤を準備する。抗不安薬も必要。

理事会。水道をなるべく早く通そうという件。ガスは大阪ガスの復旧作業を待つしかなく、二月いっぱいはかかるであろう。建物の補修は理事の個人的知合いである複数の建築会社に見積もりを取らせ、施工主である長谷工との交渉材料にする。一戸当たり数百万円はかかるだろうとのこと。

地震以前から手抜き工事による不良箇所が散見されており、別の会社に依頼しようという声もあったが現実には困難であるらしい。前理事だった人に交渉事に長けた人がおり助かる。現理事に法律家がいるのだが結局何の役にも立たなかった。理事担当の年にこんな災害に遭うとはついていない。

1995.01.25.Wed.晴れ.大阪

気分が優れず、11 時過ぎまで寝ていた。
鍵を管理人に預けて帰ることにした。申し訳ないが西宮小学校避難所の回診は止めた。気が滅入ってしょうがないのだ。西宮へ戻ると鬱状態になってしまうらしい。
山手幹線・西宮球場近辺、名神高速道路登り車線が落下している。

1995.01.27.Fri.曇り.大阪

西宮のマンションは水道開通との連絡が入った。案外早かった。

1995.01.29.Sun.晴れ.大阪

10 時前に起床。
水道が直ったのは有り難いが暖房がまだなのは辛い。狭い書斎の暖房は電気式なので動くが他の部屋まで暖気を運ぶには力不足である。自分だけならなんとかなろうが赤子連れの家族にはきびしい。

長男の幼稚園仲間が圧死した家族のところへヨメが弔問に出かけてきた。家屋は全壊、衣類すらない状態とのことで、毛布やらヨメのダウンジャケットやらを置いてきた由。

賃貸の家庭は続々と出ていっている。このマンションはもうダメかとの印象。死者が出なかったのは幸いだったが。

1995.02.01.Wed.晴れ.大阪

テレビゲームばかりして過ごす。
精神的ストレスから食べてばかりいる。次の休日には無理してでも山へ...

1995.02.02.Thu.曇り.大阪

堀内より電話。今月 11 日に予定されている高等学校同窓会は甲子園の会場がボロボロのため来年に延期される由。
ガスがあと一週間ほどで通るとの連絡あり。

1995.02.04.Sat.曇り.大阪

さて、今日は住人全員が参加する理事会総会である。
19 時より 21 時まで長谷工コミュニティ(管理会社)を交えた集会。

長谷工コミュニティ側の放言により場内騒然。怒声が飛び交う。

地震のあと、役所が建物の損壊状況を調べに来た折、北に面したエントランス部分だけ見て「損害無しですね」と言うのを聞きつけ、その役人を内部に案内し中身の酷い状況を見せた住人がいた。損害無しと判定されれば被災への公的援助が受けられない。その方に対し、長谷工コミュニティ側の一名が名指しで非難したのである。理由は「皆様の財産であるマンションが酷く壊れていると広く宣伝することになり、体裁が悪い」というばかげたものだった。名指しされた方は非常に温厚な紳士だがさすがに激昂し、口調こそ普段どおり穏やかだったもののその発言内容は過激だった。長谷工コミュニティ側もびっくりしたようで、放言した人間はその後担当から外されることとなる。

21 時からは長谷工コミュニティ抜きでの総会続行。先ほどの興奮が冷めない。長谷工コミュニティの大馬鹿の一言が後々まで尾を曳くことになり兼ねない。

その後の理事の働きにより役所の判定は「半壊」となった。あの状況で役所も満足には動けず、一戸一戸を詳しく見て回ることなど出来ないのは無理もなく役所を非難することは出来ない。自身を守るためには自分達で動かねばダメなのだ。

その後 23 時半まで理事会。

夜半過ぎに大阪へ向かう。

1995.02.05.Sun.曇り.大阪

4 アマ受験。

1995.02.09.Thu.晴れ.大阪

忘れていた!今日が三歳児健診当番の日であった。一昨日、保健所から確認の電話があったそうだが、医院内での伝達がうまくいってなかったようである。14 時頃保健所から電話があったがこれから出かけても間に合わぬ。穴を開けてしまった。(代わりに駆り出された近くのドクターにはあとで丁重に謝った)

ガスの開通見込みはまだだった。仁川の高台では既に開通したそうだが... 今月いっぱいかかるか。あるいはもっと?

1995.02.10.Fri.晴れときどき曇り.西宮

15 時半頃マンション管理人から電話があり、今日中にもガスが復旧するとのことである。今朝までガス復旧の見込みについての情報はなく石油ストーブのための灯油と容器を買ったばかりなのだが、これは嬉しい誤算である。ただ、先日の集会でも指摘があったように風呂桶が壊れている可能性もある。エアコンがちゃんと動く保証もない。

家族全員で西宮へ戻る。

帰ってみたら無事風呂が沸かせるし暖房も動く。万歳。

1995.02.13.Mon.曇り.西宮

久しぶりの電車出勤。サブザックを背負って出かける。西宮北口駅北東側を見て愕然とした。ほとんどの建物が全壊している。武庫之荘でも一階部分が崩壊したビルを見た。阪急今津線、神戸線沿線は目茶苦茶である。西宮北口から西方面の路線はズタズタである。改めて災害の重大さを思う。

各階とも *02 〜 *05 号室まで、下水配管の最終が壊れているのが分かったので風呂、洗濯、便所は控えよとのこと。困ったなあ。とりあえず今日は風呂なし。

1995.02.14.Tue.曇り.西宮

帰宅したら排水 OK となっていた。

1995.02.15.Wed.曇り.西宮

4 アマ合格通知到着。

1995.02.16.Thu.曇り.西宮

診療中、鹿児島の生駒道明氏より見舞いの電話があった。有り難いと同時に懐かしい。昨年七月に開業した由。

国賀に電話。自宅のある明石から仁川(奥さんの実家)まで車で走ったらそれは凄惨な光景だったと言っていた。そういえば夙川から西へは地震以来出かけていない。後日、遠方から物見遊山に来て神戸の瓦礫の上でピースサインを出し記念写真に収まっているバカのことが報道されていた。こんなのは論外だが、悲惨な光景を被災者の目で一度見ておくべきだった。しかし、被害が軽かったとはいえ、いや、だからこそ見に行く気分にならなかったのも事実である。

1995.02.18.Sat.曇り.西宮

西宮北口のサティに出かけ財布と靴ベラ、食料などを買う。地下の食料品売場はかなり荒れていて見るに忍びないほど。

帰ったらおや集会室に明かりが灯っている。理事会であった。連絡は受けていなかった。18 時開始のところ 18 時半から参加した。修繕は結局長谷工にやらせることになった。来月 12 日 13 時に総会が開かれる予定だが、4 日の総会で全住民の長谷工に対する不信感は満タン状態。どうなることやら。板挟みの理事は辛い。
余震があった。ほとんど感じなかったが五階にいたヨメはかなり揺れたという。集会室は一階。一階と五階の違いか。翌朝の新聞では震度 1 だったそうな。震源近くの洲本では震度 4。

1995.02.19.Sun.快晴.西宮

ゴロゴロしつつ、ヨメが家具を見に行こうなどというが近くの家具屋がまともに営業しているはずもない。

あまりゴロゴロしてばかりいてもいけないのでヨメのリクエストに応えて厄神さんに出かける。
先月厄神さんにお参りした翌朝が大地震であった。嫌な予感がするなあ。否、厄よけのおかげで助かったのかも知れぬし、悪口を言っては罰が当たる。

1995.02.22.Wed.晴れ.西宮

散髪。関学生協の理髪店は 2 月 13 日から営業を再開できたそうである。
午後から長谷工コーポレーション(施工主)の人間にベランダを見せる。タイルには結構やられた部分があった。

1995.02.26.Sun.晴れのち雪・雨.西宮

雪の比良・堂満岳ハイクからの帰り道。

仁川右岸を上流に向かって走っているとき、例の地滑りの跡が真正面に見えた。岩登りの練習にでかけるとき通過する場所でもあり、大勢が生き埋めになった場所なので、気にしつつもこれまで近づく気にならなかったのだ。

関学の裏に車を置いて、いつもムーンライトへ通う道を辿ってみた。住宅街を抜けて仁川渓谷右岸のハイク道に入ろうかとする寸前で道はなくなり、その向こうは砂山と化している。コンクリートの基礎だけ残った恐らくアパート跡に花束や線香・供物が供えてある。合掌。

立入禁止の札を越えて砂山に登るとダンプやショベルカーが稼働しているのが見えた。遥かにムーンライト、三段岩らしいのが見えた。どうやら地滑りはムーンライトの 50 - 100 メートル下流で起こったらしい。仁川は完全に埋まっている。

次に浄水場方面に回ってみる。浄水場の建物はその下の地面が流れ去り、数メートルに渡って崖っぷちに突き出ている。一昨年の秋に不知火さん・わかたさん達と岩登りをやって帰るときにここを通り、ムカゴを探したその地面が消失している。にわかに暗い気分になって帰宅する。

1995.03.03.Fri.曇り.西宮

今夜は 20 時から理事会か。帰宅時刻に始まるとは... 夕食抜きか、それとも少し遅れていくか。あるいは缶コーヒーでエネルギーを補給しておくか。

1995.03.05.Sun.曇り.西宮

高見山・低山徘徊派オフ。

1995.03.09.Thu.晴れ.西宮
阪急電車の車窓から見る上武庫橋東行きと、東詰めからの南行きはさほど渋滞していない。一度車で出勤してみようか。仁川、武庫川右岸、上武庫橋、名神尼崎のルートである。高速道路に入る必要があるかどうかはわからない。

1995.03.11.Sat.快晴.西宮
明日の総会に備えて夕方から理事会。

1995.03.12.Sun.曇りのち雨.西宮

理事会総会。
心配していた揉め事もなく、平穏に終了。予定より 40 分過ぎただけで済んだ。
総会の後、理事会だけでは間に合わぬというので「マンション復旧委員会」が発足し、委員長T氏、副委員長W氏とともに私も副委員長に任命されてしまった。これまで随分さぼってきたのだから文句は言えない。18 時頃ようやく解放されしかし早速議事録を書かねばならない。しかし、買ったばかりの Power Mac 8100/80 の設定がまだ終わっていない。セッティングをいいかげんに済ませ、議事録に取りかかる。W氏、T氏と相談して帰宅し、書き直す。FEP は今後のことを考えて MacVJE-δに換えた。ATOK8 はシステム 7.5 と相性が悪い。

1995.03.13.Mon.曇り.西宮

月曜日ではあるが車で出かけることにした。土曜日とさほど混み具合は変わらない。名神尼崎 I.C. から入る。所要時間約一時間。電車とほぼ同じ。やはり車は楽である。

議事録をエディタから MacWord 3.0 に移動して大方仕上げる。
夕食の後W氏宅に復旧委員三名集まって諸々相談する。仕事の後のバカ話がなかなか面白い。
帰宅して入浴後、議事録の再訂正・レイアウトなど済ませる。25 時就寝。

1995.03.14.Tue.曇り.西宮

出掛けに議事録をT氏宅とW氏宅のポストに放り込む。
復旧委員会。今後のスケジュールについて。

1995.03.15.Wed.快晴.西宮

壁を剥がし、耐震壁の損壊程度を調査する件について一階の住人に了解を求める電話をかける。全員 22 日で OK であった。 議事録 14 部を印刷しようとする直前にW氏より間違い数件指摘あり。すぐ訂正して印刷にかかる。

1995.03.18.Sat.曇り.西宮

マンションは市役所から半壊と認定された。

第二回復旧委員会。幸い 20 時に終わったのでさっさと寝て明日は早朝起きして和佐又へ向かうことにする。

和佐又にいる平熊さんから電話あり。早速今日登ってみたところ、石の鼻から先は怖くて行けないとのこと。平熊さんが恐いだって?ホンマかいな。あのベテラン、怖いもの無しの筈だが、、、、素直に聞くことにする。

1995.03.19.Sun.快晴.西宮

大普賢岳一回忌登山。石の鼻から先へも登ることができた。

1995.03.21.Tue.快晴.西宮

議事録を書き上げてT氏とW氏に届けた。木曜日にも委員会がある由。

1995.03.22.Wed.晴れのち曇り.西宮

9 時より削り(はつり)調査立会い。

このマンションの建設中から工事を見ていた某氏の話によると、埋め戻しに廃材を使ってたりしたそうで、その方は南向きの一階に入居したのだが、ベランダが年に数センチずつ下がり、今回の地震でとうとう落ちてしまったという。

早速発覚。南側の耐震壁に横筋がなかった。(これは氷山の一角)あちこち写真を撮る。立ち会ったのはW氏、S氏、K氏と私の 四名である。
11 時頃一旦休憩をとり、あとは 15 時頃からW氏と改めて写真を撮り直すことになった。

1995.03.23.Thu.快晴.西宮

夕食の後、復旧委員会。とはいっても三名だけであるが。以前から疑問視されていた手抜き工事があらわになりつつあるが、これを以て訴訟を起こすのは現実的でなく、修繕費を押さえる材料に使うべきだという。なるほど、世の中そんなものか。見ていないと補修工事でも手抜きをするので、修繕工事中は常に誰かが見ていること。
土曜日の会議を 17 時開始に繰上げ。

1995.03.25.Sat.曇り.西宮

16 時頃帰宅。ちょっと休んで 17 時から復旧委員会。耐震壁の損傷が予想以上に酷く、四階でも基準以上のひび割れがあったため五階のウチのリビングの壁も剥がされることになった。

1995.03.28.Tue.晴れ.西宮

議事録と軽度損壊扉の取扱に関する掲示文の叩き台を書いて委員長と副委員長宅に放り込む。

1995.03.29.Wed.曇りのち雨.西宮

朝寝の後日本橋へ。まず今津の金物屋でエアコンダクト部品を購入し、そのまま R 43 を東進、尼崎西から阪神高速神戸線に乗ることができた。甲子園付近で高架が落ちていた。久々に通る道であった。

1995.03.30.Thu.快晴.雨.西宮

昼間、仕事中に長谷工コミュニティから何か報告があったらしく今夜は帰宅したら復旧委員会の進行具合を聞かねばならない。議事録の訂正も。
議事録訂正。理事会、復旧委員会はW氏が一人で動いているようなもので理事長、副理事長なんぞただの飾り。

1995.04.01.Sat.快晴.西宮

帰宅してゆっくりする間もなく復旧委員会。

1995.04.08.Sat.快晴.西宮

復旧委員会は 17 時から 23 時までやっていた。来週の日曜日が総会である。これをクリアすれば復旧委員会は解散となる。

1995.04.11.Tue.曇り.西宮

さて、土曜日の議事録がまだだが... あの日は目茶苦茶やったからなあ。旨くまとまるかどうか?
夜中までかかってシステムフォルダーを再構築しただけで議事録作成にはまだ取りかかれない。

1995.04.12.Wed.晴れ.西宮

夙川の桜がもう散り始めている。いつが満開だったのか、今年は気づかずじまい。
夕方議事録を書いた。委員長・副委員長宅に投函。

1995.04.15.Sat.晴れ.西宮

局免許状が届いた。「JK3UAV」であった。

先週土曜日の議事録は校正が戻ってこないのでそのまま印刷して配ることにする。

1995.04.16.Sun.雨.西宮

理事会臨時総会。満票で可決。W氏を筆頭にキレ者が沢山いたおかげでスムーズに進行した。揉めるばかりでまったくまとまらないマンションが多いと聞く。

1995.04.17.Mon.晴れ.西宮

昼休みと午後の診療の合間に議事録をおおむね書き上げた。
帰宅してから二部印刷し、委員長、副委員長宅に放り込む。早速W氏が来てチェック。その場で書き直しプリントする。

1995.04.18.Tue.曇り.西宮

帰宅後議事録を再チェック。項目をやや細かくし、70 部プリントして委員長宅に放り込む。

1995.04.22.Sat.曇り.西宮

天気予報によれば明日は寒冷前線の通過で荒天らしいので、低山徘徊派オフ「鈴鹿・藤原岳」は中止

1995.04.23.Sun.雨のち晴れ.西宮

鬼の居ぬ間にナベサダを大音量で聞いていた。ストレス解消になる。ビーバップと懐かしや「マイディアライフ」を聴く。ナベサダのフュージョンではこれが一番いいな。
17 時頃、地震雲みたいなのが出ていたので写真に撮る。18:10、垂水か須磨で震度 1 とのこと。やはりあれは地震雲か?

1995.04.29.Sat.曇りのち雨.西宮

長男を連れて六甲を歩いた。
一軒茶屋近くへ出て驚いた。車道に土砂が積み上げてある。両脇に崖はないので、崖崩れではなく単なる通行止めの処置だろう。それにしては念が入っている。
茶屋は健在であった。ハイカー客はいない。西側からはここまで車で来られるので、そのドライブ客が数名。閑散としていて普段の休日とはまるで様子が違う。天気が悪いせいだけではない。
雨足は強くなるばかり。ここからの最短下山路は有馬温泉へ下る道なのだが、長男に元気がなく、風邪をひかせてはいかんので自宅に電話して、車で迎えに来てくれるよう依頼した。先ほど石の宝殿から車道に出たときに、東から上ってきた車を見かけたのですぐ近くまでは来られるだろう。到着まで 40 分はかかるはずなので、その間茶屋の主人と話をする。

「ここは地震の影響はいかがでしたか?茶屋が壊れたと聞いていましたが、無事のようですね」

「誰がそんなことを言いましたか?なんともないですよ。随分揺れましたけどね」

「登山道も随分閉鎖されたらしいですが、どんなもんでしょう」

「地震の二日後に警察関係が登山道の入口に片端から『立入禁止』を貼ったんですよ。実際には大した影響はなかったですよ。私もあのあと随分歩き回って調べましたがね。行政としてはとにかく何でも禁止しておけば保身になりますからね。ハイカーが怪我をすれば、処置をしなかった行政の責任が問われるでしょうから」

「ハイカー客は減ったでしょう」

「もうあがったりですわ。登山道はなんともないんですけどね。谷筋さえ避ければいいと思いますよ」

気の毒なことである。

茶屋を出て車道を東へ向かう。後鉢巻山の北側を巻く車道の谷側一車線が数メートル陥没していた。

ヨメは朝私らを送ったあと夙川の実家に寄ったそうで、ネコのタマ(リンクページの写真)が老衰のためそろそろ危ないとのこと。もう一週間、飯を食っていないそうな。18 歳やからなあ。人間ならさしずめ百歳オーバーか?

1995.05.01.Mon.雨のち曇り.西宮

診察が終わってから実家へ電話してみたらタマは 15 時頃死んだとのこと。遅れるが実家へ寄る旨伝える。

淀川通、R 43 を経由して夙川へ。20 時を過ぎていたので通行できた。渋滞もないが、阪神高速があちこちで落ちているのと、復旧工事のため車線が半分に減ったりしている。

実家は一階が補修工事中でリビング・ダイニング以外は使えない状態である。

タマは祭壇をつくってもらっていて缶詰と線香が供えてあった。顔がガリガリに痩せて眼が少し開いていた。キツネのような顔になっているが、まぎれもないタマの顔であった。瞼を閉じようとしたが死後硬直のためどうしても閉じない。何度も体を擦ってやって実家を後にする。帰宅後タマを拾った日を調べたら 1977.04.28。満 18 歳であった。

1995.05.13.Sat.曇り.西宮

最終の復旧委員会。

1995.05.14.Sun.雨.西宮

議事録を書く。

1995.06.07.Wed.快晴.西宮

天気がいいので六甲へ行くことにした。
車で芦有道路に入り、いつもの車デポ地へ。料金所では「芦有道路全線通行可能です」とある。
東お多福山登山口から東南稜を登る。土樋割から黒岩西尾根を登り、震災以来初めての六甲最高峰到達。

1995.07.10.Mon.晴れ.西宮

理事長が転勤でいなくなり、次の理事長は私であるという噂が流れている。はて、一介の理事に過ぎない私がなぜ?

1995.07.21.Fri.曇り.西宮

朝刊によると 29 日より名神上り線・西宮〜尼崎間が四車線に復旧する。
帰り道、名神登り線は既に二車線となっていた。

1995.07.23.Sun.快晴.西宮

理事会。

どうやら理事長になりたくない副理事長がいろいろ裏工作していたようだが無駄な努力に終わった。副理事長が自動的に繰り上がるのは当然のこと。

1995.08.09.Wed.快晴.西宮

車のタイヤがパンクした。外したタイヤを見て見ると、パンク状態で高速道路を走った一本はズタボロ、二本に釘と木ねじが突き刺さっていた。更に一本はほとんど丸坊主。スペアとして使えそうなのは一本だけだった。震災のため道路にゴミが散らかっているのだろう。

1995.09.12.Tue.晴れ.西宮

外壁を修繕するための足場のグリーンシートが除かれて月が綺麗に見える。足場も18 日から解体作業が始まるらしい。

Home